理想の教育・啓蒙用プログラミング言語とは? ひょっとしたらJavaScript、と私も思い始めた。思い始めた理由を非啓蒙的・大上段から書いて見る。
—
「理念・理想」は実現しない限り、常に新しい。
というわけで、柄谷行人『トランスクリティーク』(大澤真幸氏のプチ書評)を思いおこして書く。
今回の不況で、世界一を目指してきたトヨタが車を作りすぎて、コケてしまったことが示すように、資本主義には過剰生産の病理(あかん。作りすぎてしまうから、売れへんのや。)がつきもの。
で、どうするのか。20世紀末の柄谷氏は、「アソシエーション」というものに希望を託したわけだが、このアソシエーションは、19世紀のKarl Marxの頃にも、21世紀の今にもないもの(Nowhere)。
「association」は、「連合, 合同, 結合; 提携; 関連; 組合, 協会; 連想; 交際, 親密;」などに訳されるらしいのだが、柄谷氏は、相互啓蒙的なものを「アソシエーション」に込めていたのだと思う。同時に、『トランスクリティーク』では、「貨幣」についても考察がなされている(「事後的」にみると珍説の「LETS (‘ω’)」はここから誕生)。
今回はただひとつ、「啓蒙」という観点からだけ述べておこう。
「アイデアの時代・知財の時代」などなど、いわゆる人的資本が脚光をあびる昨今では、 たぶん、「世渡り」と結びついた「啓蒙」が資本主義のドライブとして 不可欠になっているのではないかと。「世渡り上手になるよう啓蒙」された人々には、稼ぐ力とともに「商品」への欲望が内在されるようになる。 #単に、「稼げるようになった当初は、あれもこれも欲しくなる」ということ
「時代に即した啓蒙」は、資本主義だろうが民主党政権だろうがアソシエーションの時代だろうが求められるというわけ。ただ、広い意味の啓蒙とは、単に教科書を教え込むことではない。「差異が利潤を生む」のであり、「何らかの意味で新しい」ものを含むことが啓蒙にあっても必要条件であるためだ。
—-
さて、ここで、理想のプログラミング言語教育の話に入る。
若いプログラマは、最終的には稼がなければならない(稼ぐ手段はプログラミングでなくとも良いが)。資本主義や日本の国際競争力といった大上段から見ると、日本のプログラマが総体として稼がなければならない[チームプレイのプログラミングはそこそこdomesticな産業]。では、生産性が高く今後の世につながるプログラマを、いかに教育・啓蒙すべきか。
現時点での、私の結論は、dankogai氏とほぼ同じで、「JavaScript + Lisp系言語から入る入門コースを作るべき」。小飼氏・岸田氏の議論を見ていてそう思った。
古い人間である私は、BASICを経て、C+アセンブラから入ったので、入門はCからという思いも捨てきれないのだけれども。
(読者想定 中学生~大学教養課程の学生くらい)
ただ、小飼氏と違うところは、たとえ「よっこらセックス」であるとしても、バーチャルマシン環境は早いうちに教育したほうがいいと思っているので、中学生はJavaScript、高校生になったらclojureみたいな啓蒙書を書きたいなと思う今日この頃。もちろん職業人はHaskellScalaで。
けっこうまじめに考えているので、続く。
※「資本主義がもうだめ」とかの本は、啓蒙のことをどう述べているのだろうか・・・指令 : 資本主義の精神棒を少佐に注入せよ。
Now Loading…
Now Loading…
Now Loading…
C, Capitalism, clojure, JavaScript, LISP, Marx, TransCritique, 啓蒙, 柄谷行人, 貨幣
Hide
自分はおそらく、そこそこのプログラミング言語オタクである(ここでの「オタク」には役に立たないことにうちこむ様という意味を込めておく)。
前々から、プログラミング言語オタクは、現代の文弱なのではと思っている。
昔読んだ、柄谷行人氏の文芸評論『日本近代文学の起源』あたりを思い浮かべるに、 「言文一致」を作り上げていった明治時代(19世紀末)を終え、大正・昭和と時代が移ろうにつれ、文学が現実を変える力を失っていき、「文弱」という蔑称を文学字自身が語るように・・・そして、文学が文学である以上の期待を誰もしない「平常な場所での文学」(『意味という病』 所収エッセー)にという時代となる。
すばらしいプログラムが世の中を変えると信じられていたのは、Fortran/Lispが登場して以降どこまでであったろうか?Javaの力は、API・ライブラリの力といった細かな議論はさておき、現代のITシステムの多くは、営業SE、運用SE、そして、何よりシステムのユーザーとのチームプレイの結果、価値を生み出しているにすぎない。(オープンソースを含む)大多数のプログラムは、それ自体に価値はなく、使われてはじめて価値を生み出す。これが、大多数のプログラマにとっての「平常な場所」だ。そして、その平常な場所がつまらない/耐え難いと思うプログラマは、(自分を含め)夜な夜な新たなフレームワークや新プログラミンク言語をホゲほげする、と。大正・昭和の「文弱(あるいは三文文士)」の社会的地位も似たようなものだったのかもしれない。
2007年・2008年頃のプログラマのブログに多く見られたスーツとギークの対比に似た対比も、「○○対(三文)文士」の類として多数書かれていたのかもしれない。
ところで、冒頭の文芸評論家柄谷行人氏は、正確には、元文芸評論家である。年を取ることがさほどのマイナスではなかろう文芸評論の世界から、氏が身を引いたのは、 (個々人の葛藤を描いた)「文学」や文字通り小さな説を唱える小説がもはやほとんど小説し、小説はただのエンターテイメントと化したからだという。
Now Loading…
文弱たちがさまざまな思いを込めてのめりこんだ小説は、ただのエンターテイメントと化した。プログラミングの未来はいかがなものだろうか・・・プログラミング言語オタクとしては、少し気になるところである。
スーツとギーク, プログラミング言語オタク, 平常な場所での文学, 文弱, 柄谷行人
Hide